姿なき怪物
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 怪物は、突然現れた。
 それは誰も目にしたことがないような姿をし、誰も耳にしたことのないような雄叫びを上げ、誰の頭にも混乱をもたらした。
 怪物は牙を剥き、爪を振るい、翼を広げ人を襲う。腰を抜かした人間を捕まえ、頭から齧る。隠れている人間を見つけ、踏み潰す。
 人は逃げるしかなかった。悲鳴を上げている暇があったら息を切らして走るしかなかった。
 その中で、彼も逃げていた。
 周りで逃げていない者などいない。逃げていないのは既に喰われてしまった者。ひたすらに皆逃げていた。目的地があるわけではない。ただ自分の前方にある人の群れを追いかける。皆に着いていけば少なくとも一人よりは安全だから。
 ぐるおぉぉぉ……。
 遠くから怪物の唸りが聞こえる。
 喰われたくない。その一心で足を動かす。喰われたのは見知らぬ人間ばかりだった。彼の知り合いはすぐ近くで同じように逃げている。彼が今逃げることができているのもその友人達のおかげだった。
 怪物は突然現れた。
 だが、徐々に現れた。
 前兆があった。誰かが何処かで喰われている。そんな噂があった。
 彼はそれを友人達から聞いていた。友人達の言う通りに行動していなかったら、今ごろは怪物の腹の中だったに違いない。
 ずん、ずん、ずん、ずん……。
 遠くから怪物の足音が聞こえる。
 もうあそこに生きている人間は残っていないということなのだろう。怪物には翼がある。すぐに飛んでくるに違いない。そうなれば自分達は生き残ることができるだろうか。必死に走る彼の頭にそんな不安がよぎる。だが、それすら考えている暇はない。彼にできることはただ逃げるため、群れについていくことだけだった。
 途中、いくつかの分かれ道があった。右か、左か。彼が迷うことはなかった。群れと同じところを選べばいいだけだったからだ。しかしそれでも反対側へ行った人間も少々、いた。その人たちがどうなったかは彼にはわからない。だが無事ではないだろうと彼は思った。自分達が無事ということは分かれた少ない方から怪物は狙っているのかもしれないと彼は思っていた。怪物は一人として逃すつもりがないに違いない。
 きゃぁぁぁぁぁ……。
 少し後ろで、叫び声が上がった。怪物が追いついてきたのだ。
 彼には振り返ってみるだけの余裕と勇気は無かった。そんなことをするぐらいだったら少しでも遠くへ逃げる。
 後方からは怪物が暴れている恐ろしい音が聞こえる。
 その時、また分かれ道が出てきた。右か、左か。前を走る人達は迷う事無く左へと曲がっていく。しかし彼には、右が安全に思えた。右の道は広く、その先には大きな国道がある。対する左は、なにやら行ったこともない場所へ伸びていて、薄暗くてよく見通せない。
 右へ行きたい。
 彼はそう思った。
 どう考えても彼には右が安全に思えた。しかし前を行く群れは左へと向かっていく。思わず立ち止まると、友人達が彼を急かした。何故急に立ち止まるのか。
 右へ行った方が良いとしか思えないと彼は答えた。
 皆左へ行ったのに、右へ行くというのか。
 友人達の言葉に彼は戸惑った。確かに右へ曲がったものは誰もいない。彼のように迷った者も少しいたが、すぐに群れについていった。
 今まで皆についてきて無事だったから今更分かれて逃げるなんて考えられない。
 あの人についていけば助かるに違いない。
 そう友人達は言った。
 今、逃げる群れの先頭にいるのは一人の男だった。その男のおかげで皆生きている。怪物の事を注意していたのも男だし、怪物が現れたとき混乱した人々を率いてここまで逃がしているのもその男である。
 確かに、ここまで来てその男から分かれるのは怖い。
 自分達はあの人の言う通りにする。お前はどうなっても知らないぞ。
 そう言って友人達は彼に背を向けて走り出した。
 ぐるぅがあああぁぁぁ……。
 さっきよりもだいぶ近い場所から怪物の叫びが聞こえた。
 彼は、左へ行った。
 立ち止まっていた分を取り戻すように走った。後ろからは断続的に怪物の声が聞こえてくる。もし右へ曲がっていたら今ごろどうなっていただろうかと思う。飛んできた怪物に一瞬で喰われてしまっただろうか。それとも、上手く逃げ切れたのか……。
 やがて、友人達に追いつくことができた。既に逃げる群れはかなり少なくなってしまっていた。ここまで無事でいるのは、やはり今先頭にいる男のおかげに違いない。彼は男に感謝した。
 道は暗く、注意して走らないと転びそうになる。もうだいぶ進んだがどこかへ出る気配もない。一体この道はどこまで続くのか、彼は少し心配になってきていた。それを友人に話すと、
 気にすることはない、きっと大丈夫に違いない。
 と断言された。
 ここまできたら、彼はもうすべてを任せるつもりだった。
 そう、彼が思った時。
 前方から、悲鳴が聞こえた。
 悲鳴と、地が揺れるような唸り声。
 一体何があったのかわからず、彼は暗い道の先へ目を凝らす。そこには、二つの火の玉が見えた。否、それは目だった。爛々と輝く、真っ赤な目。
 怪物が、そこにいた。
 はるか後方にいたはずの怪物が、どういうわけか群れの前で待ち伏せていた。まさか先回りをされてしまったのか。そう誰もが思った。
 だがそれは違った。
 後ろにも、怪物はいたのだ。
 るうおおおおおお……。
 二つの雷鳴にも似た唸りが、彼等を包んだ。
 友人が、何か叫び声を上げて走り出した。逃げようとしたのだ。怪物の足元を通って引き返そうと。だが、友人は通り抜けることもなく怪物の腕に捕まり、次の叫びを上げる間もなく喰われてしまった。
 実に、あっさりと。
 声も出なかった。彼はただ呆然とするだけだった。残った友人が、群れの方へ走り出す。すぐにその意図に気付いて、彼も走った。頼れるものはあの男しかいない。あの男なら、何かをしてくれるはず。そんな無責任ともいえる期待を抱いて、彼等は立ち尽くす人達をかき分けて先頭へ出た。
 そこに男はいた。
 だが、それは彼が期待した姿ではなかった。
 男は、怪物の足元にいた。
 そこで、笑っていた。
 まるで罠にかかった馬鹿な獲物に向けるような嘲りを彼等に向けていた。隣の友人は、どういう事かわかっていないようだった。かき分けてきた人たちがやけに静かだったわけが彼にはわかった。皆気付いたのだ、男の正体に。それで、誰もが呆然としていたのだ。
 男は、怪物側の人間だったのだ。
 簡単に、怪物に人間を喰わせるためにもう一体の怪物の下へ皆を先導してきたのだ。皆が、自分についてくるとわかっていたから。
 だから追いかけてくる怪物は翼があるくせにやけにのろかったのだ。彼の頭の中でいろいろなことが繋がり、真実が次々と組み立てられていった。
 だがもう遅い。
 それは彼に限らず、全員が思ったことだった。もう、助かることはない。
 何故こんな事になったのか。
 答えてくれる者はない。
 あの時、もしも右へ曲がっていたら、自分はどうなっていたのだろう。
 男の真っ赤な瞳を見ながら最期に彼はそんなことを思った。


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