天宮せりかの事件簿
戻る




・或る日の文芸部室



 ――――結局のところ、すべては校内に入り込んだ野良犬の仕業だったのだ。やはり解決の糸口は妙に増えていた虫だという推理に間違いはなかった。用務員の愚痴から真相にたどり着くとは、流石は我らがホームズたる天宮せりか嬢である。一週間続いた運動部部室物色事件も幕を閉じるが、これで運動部が部室に食料を置いておくこともないだろう。――――

「本当になくなるかなぁ……?」
 テキストを保存し、印刷ボタンをクリックして脇に置いてあるポテトチップスをつまんだ。壁際のプリンタがガガガガと苦しげに呻き始める。インクの出は良いけど最近うるささに磨きがかかってきたような気がする。しかしこの呻き声は一仕事終わった証でもあり、むしろ聞いていてほっとする。
「あー、うるさーいー」
 後方から声が届いた。普段は高めで活発な声色が、低く濁って明らかに不快そうなものとなっている。
「まぁ……物事の感じ方には個人差があるよね」
 振り向けば彼女に睨まれそうなので首を固定したままポテトチップスに手を伸ばす。今回の事件簿は七頁なのでもう少しガガガガは続く。僕に逃げ場はポテトチップスしかないのだ。ここにあるポテトチップスはきっとほとんどが僕の逃げ場になるに違いない。
「なになにぃ……“事の発端は早朝の静けさを裂いた、サッカー部員の叫び声だった。”と、平凡な切り出しねぇ」
「刷りたては注意して読んでよ」
「それ杞憂。ボクがどんだけココに詰めてると思ってんの」
「二年と十ヶ月」
「まだ三年と感じるかもう三年と感じるかには個人差があるわねー」
 そんな適当なことを言いながら彼女の両目は活字を追っている。どうせしばらく放してくれそうにないので僕はパソコンでマインスィーパに興じることにした。小さなウィンドウが現れる。まずは初級で腕を慣らすため、隠れたパネルにポインタを走らせた。
「あっ、七秒……あれ、ハイスコアじゃないんだ?」
 僕のベストは九秒だからハイスコアのはずだけど……。ハイスコアを確かめてみる。
 初級、四秒。中級、十八秒。上級、四十秒。
 …………。
「やめよ……」
 起動して一分でマインスイーパを終了した。この部屋に入るのは僕と彼女ぐらいだから、どうやら彼女がいつの間にかすべてのスコアを更新してしまったらしい。上級四十秒って、もはや全国大会級じゃないのだろうか。そんな物があるのかは知らないけど。
 そして伸ばした手はポテトチップスに触れなかった。こちらもいつの間にか空になっていたらしい。袋を捨てるべく立ち上がると、彼女がちょうど原稿から顔をあげていた。
「んじゃコレいつものトコに置いておくけど……ソレ、よく飽きないね」
 僕が持つ袋に対する発言。
「味が豊富だからね。ちなみにこれはうす塩味」
「あっそ」
 彼女は自分の興味が向かないことについては冷たい。つまり僕が書く自分の武勇伝には少なからず興味があるということかな。原稿を保管用フォルダに入れる彼女の横顔からはそんなこと窺えないけども。
「一体どれだけ買い置きしてるんだか……野良犬にココを荒らされるのは勘弁だわ」
「大丈夫でしょ。校舎内だし、造りは生徒会室級だし」
「そんなコトはわかってるっての、危険だったら全部ボクが捨ててやる」
 ……文芸部部室が良い部屋でよかった。
「そんなのばっかり食べてるから大きくならないのって言いたいのよ。じゃ、ボク今日は映画観るからもう帰るねぇー」
「ほっといてよ……おつかれさま」
 僕の手から離れた袋がゴミ箱に落ちるのとドアが閉まるのはほぼ同時だった。




・二月十四日の図書室。



 届かない……。
 背伸びして腕を伸ばすが、五センチメートル程届かない。
「くっ、もう少しなのになぁ……」
「取ってあげようか」
 ジャンプという最終手段に出ようとした僕の背後頭上から高い声。振り返って声の主を確認するまもなく腕が伸び、届かなかった本があっさり降ろされた。すでにそれが誰か九割九分確信しているが、振り返る。
「ホントに小さいわねぇー、はい」
「…………ありがとう」
 僕が小さいのは認めるけど、彼女の身長だって百八十を超えるんだからわざわざ僕を小さいと言うのはやめて欲しい。
 親切にも差し出されている本を受け取った。頭一つ分以上高い位置からニッコリと意地の悪い――僕にはそう見える――笑いを浮かべている天宮せりか。全く予想通り。
「『ホーロック・シャームズ』……ナニ、このパチモノくさい小説は」
「気になるタイトルであることは違いないでしょ」
 受け取った本を借りるべくカウンターへと向か――おうとしたが、とっさに天宮せりかが立ち塞がった。
「…………え、なに、まさか本取ったぐらいでお礼が欲しいの?」
 半ば冗談で言うと、彼女の顔がつまらなさそうに曇った。
「ソレ本気で言ってるんだったらボク一人で事件解決しちゃうよ」
「え、事件?」
 思わず一歩詰め寄った。
「そ、キミがだーい好きな事件」
「正確に言うと君が解決する事件だけどね」
 どうやら、事件が起こったらしい。それも天宮せりかは解決する気だ。ならば、今すぐこの身を反転させる必要がある。
「…………どうしたの、そんな必死に手を伸ばして」
「……………………このパチ本、元に戻してくれないかな」
 カウンターの方から女子生徒の笑い声がした。




・同日の三年三組教室



 犯行推定時刻は六限目の全校集会中。およそ十四時四十分から十五時三十分の間だ。全校生徒が体育館に集合していたため、誰にもアリバイがあるにはある。むしろ教師も体育館にいたので外部の人間が校舎内に侵入した可能性は高い。ただ全校集会をサボタージュするような生徒がいないわけではないし、途中で手洗いや体調不良で席をはずした生徒もいる。逆に校舎にほとんど人はいなかったので生徒にしろ外部の人間にしろ犯行は容易かったものと思われる。どちらにせよ大した動機が浮かばないが。ただ、鞄や机あるいはロッカーまで荒らさず丁寧に探すとなると犯行時間はおそらく三十分から四十分……。
「ソコはちょっと怪しいかな」
 唐突に背後から天宮せりかの声が降ってきた。僕が事件の状況をメモしているのを覗き見ていたらしい。
「そこ、って……犯行時間が?」
「そ」
 彼女は一度教室を見回し、独り言をぶつぶつ言うとこちらを向いた。
「被害者がね……何か共通点があるのかは調べなきゃわかんないけど、無差別じゃないわきっと」
「被害者は……十四人か。半端といえば半端な数だけど」
 三年三組の女生徒は二十三人。確かに全員ではない。
 でもそれは。
「残りの九人が持ってきていなかっただけじゃないの」
「キミには観察力も足りないね」
 “も”?
「他に何が足りな」
「少なくとも!」
 鼓膜に強烈な衝撃。思わず耳を塞いだ。
「被害にあってない大路智香ちゃんと茅原恵ちゃんは持って来ていたわ。朝見たから」
 天宮せりかが朝の自習時間を使ってクラスメイトを観察していたとは驚きだ。
「もしかしていつも朝一で教室にいるのはそのためなの?」
「観察力がなければ良い推理はできないよ」
「はー……僕はてっきり自分に興味のないことはまったく気にしない人間だと思ってた」
「…………キミはボクをそういう目で見ていたのか」
 彼女がジト目で僕を睨む。普段から光溢れる瞳には、睨まれた相手の目をたちまち逸らさせる力がある。
 逸らした視線に、眼鏡の人影が映った。
「あ……」
 彼女は入り口の前で一瞬立ち止まったが、僕達が誰かわかったようですぐに教室に入った。
 いまどき珍しい長い三つ編みに丸っぽい眼鏡。手提鞄を持っているから、きっと今から帰るのだろう。どことなく学園ドラマを思い出させる彼女は、小さく頭を下げた。
「あ、若菜いすゞさん。まだいたんだ」
「う、うん。天宮さん達はどうして?」
 ……どうして僕と話しているのに天宮さん達なんだろう。
「今日の事件だよ。彼女が解決するってさ」
 その名探偵様は僕を睨み続けているので僕は若菜いすゞさんとの会話を逃げ道に選んだ。
「事件……チョコレートの?」
「そう、それ。規模はともかく窃盗だし」
 彼女は自分の机の中を見ている。何か忘れ物でもしたのだろうか。
「そうなの……、がんばってね」
「はは、がんばるのは彼女だけどね」
 ちなみに今がんばっているのは僕を睨み付けることだけど。
 ……だと思っていたけど、さすがに飽きたのか疲れたのか許してくれたのか、いつの間にか若菜いすゞさんを見ていた。これもいわゆる観察だろうか。
 若菜いすゞさんは首を捻りながら顔を上げると、あっと声を上げた。
「こんな時間……!」
 彼女は律儀にも椅子を机の下に収めると、
「それじゃあ、また明日」
 早足で教室を出た。
「いすゞちゃん!」
「ぅわっ」
 鼓膜に衝撃、再び。
 ただでさえ高くてよく響く声なのに、彼女は大きい声を出すのが得意だ。めちゃくちゃ驚いた。
「な、何?」
 呼ばれた若菜いすゞさんの方も、驚いた様子で振り返った。
 天宮せりかはその大きな目を光らせて唇を弧にしながら――僕をからかう時、よくこんな顔をする――そっと言った。
「そんなに急いで、何か用事でも?」
 聞かれたほうはしばしきょとんとして答えた。
「あ、アルバイトだけど……」
 アルバイトしてたんだ。
「そう。遅刻しないようにね」
「ありがと……」
 自分で引き止めておいて何を言っているんだ。彼女もそれを感じたのか、どこか戸惑いながら若菜いすゞさんは今度こそ教室を後にした。
「さて……と、僕らはどうしようか。そろそろ完全下校時刻だけど」
「そだねぇー。もう聞き込みも出来ないし、とりあえず警備のおじさんに注意される前に帰っちゃおうか」
「賛成」
 そうと決まればこんな机と椅子だらけの部屋にいてもしょうがない。背後で天宮せりかが立ち上がったので僕もさっさと教室から出ることにした。
 教室の窓はカーテンで遮られていて気づかなかったけど、廊下の窓から差し込んでいた夕日は既に消え、外はいつの間にか薄暗くなっている。ガラスが鏡のように僕を映していた。
「……あれ」
 後ろに天宮せりかがいない。
 一緒に立ったのに何で一人だけ出てこないんだ。帰ろうといったのは彼女の方だというのに。
 教室に半身を入れて覗くと、天宮せりかは羨ましいほどの長身を屈め、ある机の中を覗いていた。……若菜いすゞさんの机じゃないか。
「……そういうの、趣味悪いと思うよ」
「んー。どんな忘れ物をしたのかなぁって思ってね」
 立ってこっちへ歩いてくる。ああ、本当に目線が高いね、ちくしょう。
「そんなものも君には判っちゃうわけ?」
「まぁ、ね」
 言葉に反し、彼女は少し考えるような表情をした。ような気がする。
 並んで歩くと嫌でも身長差を意識してしまうので、わざと少し後ろを歩く。振り向くこともなくスタスタ歩く天宮せりかは推理中はいつもそうするように自分だけに聞こえるぐらいの声量で独り言を呟いている。僕が隣を歩かないのはそれが聞こえないためでもある。
 そうだ、今回の事件の名前を書いておかなければ。
 手帳を窓に押し付け、彼女に離されないうちに手早くボールペンを走らせた。
 『バレンタインチョコレート同時多発盗難事件』




・二月十五日の三年三組教室



「おっはよ! 今日もちっさいねっ」
 教室の戸をくぐった僕を迎えたのは少しハスキー気味の声。毎朝のコンプレックス責めにもとうに慣れた。
「身長ってのは一朝一夕でどうにかなるようなものでもないんでね」
「ユリィはもう二年以上言ってるんだけどなー」
「君は毎日僕を見ているから気付かないのであって、僕は君と初めて会ったときから少なくとも二センチメートルは伸びているよ」
「アッハ、うそーん。アハハハハ!」
 僕の言葉の何がそんなに面白かったのか、瑞本ゆりなはそのまま腹を抱えて自分の机に戻り、大笑いしながら机を強かに叩き始めた。まばらに席についている生徒たちはそんな彼女を特に気にしている様子もない。どちらかといえばあえて関わろうとしないような空気だが。
 僕の机の前にはいつものように天宮せりかが。
「おはよう」
 とりあえず挨拶はするが、返事がないのは予想できている。彼女の唇が小刻みに動いていたからだ。今天宮せりかの頭の中では様々な手掛かりと推測が飛び交っているのだろう。彼女は黙っていると頭の回転が鈍くなると言っていたが、やはりじっと一点を見つめながら早口で何かを呟かれるのはどこか気味が悪い。しかし、彼女がここまで集中しているということは、もう解決の目処が立ったということなのだろうか。僕はまださっぱりなのだ。
 とは言っても、彼女が事件を解き明かすのをひたすら待ってはいられない。僕は僕で推理なり憶測を立てなければ。
 まず犯行時刻は全校集会中で間違いないだろう。集会前までチョコレートはあったという証言がいくつもある。となれば犯人は当然集会を抜け出した者に限られるのだが、それが不確かではっきりしない。聞き込みの結果、集会中に席を立った生徒の名前はいくらか挙がったが、どれも同時にすぐ戻ったという証言が付いてくる。教師に関しては、事件そのものを隠しているので訊こうにも訊けない。部外者が入り込んでいたとしても……わからない。ただ、素直に考えれば容疑者は三年三組の被害に遭っていない女生徒と男生徒全員だ。天宮せりかが言っていたように無差別でないならば犯人は被害者たちの何らかの共通点を知っているはずだし、何よりこのクラス以外で被害はないのだ。被害者は全部で十四人。安藤和音、宇野芳子、春日井美々、楠木――
「考え事かねキミぃ!」
「わ!」
 至近距離からの大音声。咄嗟に顔を向ければ、
「また君かよ……頼むから僕の鼓膜を破るような真似だけはしないでくれ」
「そうやって意識を内側にばかり向けるから外側に成長しないのだよ、体が!」
「その理屈でいけば君は今に身長三メートルを超えるようになるね」
「そうやってエネルギィを減らず口にばかり費やすから成長しないのだよ、体が!」
「…………」
 僕が閉口しても、大好きな偉い口調(自称)で瑞本ゆりなは喋り続ける。
「いいかね、君。そこの名探偵は超々仮定演算推理の使い手だ」
 ああ、そう。
「超々仮定演算推理とはその名の通り、現状から可能性のあるあらゆる仮定を一つ一つ演算していくという名探偵にしては閃きも超能力もない一見地味な推理法だ。だが彼女の場合は仮定の幅が違う。全く普遍な段取りからどう聞いても電波にしか思えぬ展開まで尋常じゃない数の仮定を立てるのだ。例えば少年Aがテーブルに置いてあった缶ジュースを飲めなかったという出来事に対して、彼女は缶ジュースが他人のものであるという可能性から缶ジュースに極小の隕石が落下したという可能性まで一つ一つ推測するのさ。そしてもっとも自然で可能性の高いケースを実際に検証してみるわけだ。さらに何よりその思考スピードは我々には到底計り知れない領域だ。それが超々と言われる所以さ」
 すごい、五秒で言った。
「つまり私が何を言いたいと思うかね」
 ……さぁね。
「君が独自に推理なんかしても、無駄無駄だということだよ」
「……へえ」
 確かに、なぁ。
「やっぱり僕は天宮せりかの後に付いてメモするのがお似合いか……」
 それだけ聞こえたのかさっきから聞いていたのか、急に天宮せりかが振り向いて言った。
「そうね。さぁ、行くわよ」
「あっ、セリィおはよっ!」
「うるさっ! な、何、もう解決しちゃったの」
 推理モードが終わったということは、そうなのだろうか。
 だが、天宮せりかは不満げに唇を尖らせた。
「さすがにまだ手掛かりが足りないかな。今日一日は聞き込みだからね」
 これで本日の僕の自由は奪われた。でも、それでいい。いつものことだ。僕はこのポジションが一番ハマっている。
 まぁ、自分でも推理するのはやめないけど。それぐらいやらなきゃもったいない。
「ナニをニヤニヤしてるの。行くって言ったでしょ」
「え? どういう」
 ぱしっという音と共に僕の右手が連れ去られる。
「ホームルームなんて出てる場合じゃないわ、一限目は自習だから問題ナシっ!」
「い、痛ぁっ!」
 僕の肩を脱臼させるか体を浮かせるかの勢いで天宮せりかは走り出す。僕は周辺の机に殴られながらも引っ張られるしかない。ていうか本当に痛いんだけど。
「ホームルームはユリィにおまかせよぅ!」
 何か聞こえたような気がしたが。
「あ、お前達どこに――」
 あ、木藤悟郎先生。……ユリィまかせた。
 教室から飛び出る寸前、若菜いすゞさんと目が合った。彼女の目に僕達はどう写っているのだろう。あの何かに怯えたような目では、これから先仲良くなることはないかもしれない……。




・同日のジャスコ



「あの、校外まで足を運ぶとは聞いていないのだけど」
「言ってないけど、校内だけとも言ってないわよね」
 言い訳が汚い。
 職員会議後の教師陣の目をかいくぐり天宮せりかは何の躊躇いもなく裏門から学校を出、長髪とスカートをなびかせながら迷わず最寄の大型量販店――ジャスコに乗り込んだ。無論僕は制服のほつれた糸くずのように引っ張られ続けたわけだ。
「それに、何故ジャスコなの」
「確かめたいコトがねー」
「その確かめたいことを教えてよ」
「あ、チョコレート食べたい」
「いやいや」
「あとで買ってよ。ボク財布置いてきちゃったから」
「わかったよ訊いちゃいけないわけね、お金ちゃんと返してよ」
「板チョコね、パフとかナシ」
 きっちり注文はつけるし。
 昨日のバレンタインデーの名残で、菓子売り場にはチョコレートが大量に並べられている。終日期待した挙句箸にも棒にもかからなかった薄幸男性達がメインターゲットだとしたら、こんなに哀しい場所はない。
 開店して間もなく人影もまばらな店内で制服姿はかなり目立つように思えるが、意外にも人目を引いている様子もなければ警備員に咎められもしない。案外、珍しくない光景なのかもしれない。……傍から見たら授業をサボタージュしている学生だよ。
「ココで待っててね」
 明治ミルクチョコレートの山の前でようやく右手が開放された。どうもこの右手は天宮せりかに攫われることに慣れてきている気がしてならない。
 天宮せりかは商品も持たずにレジへ向かったかと思うと、なにやら従業員に話しかけている。僕に見せる意地の悪い笑顔ではなく、社会受けする爽やかな笑みを浮かべていた。
「作り笑いが上手いね……」
 一体どんな話をしていたのか、従業員が席を外す。少しして店員が見えなくなると天宮せりかはレジの内側を覗き始めた。何かを覗くのは趣味かもしれない。やはりよくない趣味だ。しかし、こんなところに何の用があるというのだろうか。確かめたいこととは、従業員に聞けばいいことなのか。一体何を考えているのかさっぱりわからない。
 と、従業員が戻ってきていた。従業員が首を振り、天宮せりかは一礼してこちらへ歩いてくる。
「用は済んだのかな」
「まー、ね」
 ピースしてみせる。どうやら学校を抜け出してまで来た甲斐はあったらしい。あとはチョコレートを買って帰るだけだ。
「これでいいよね」
「うん」
 明治ミルクチョコレートを二枚持って彼女が行ったのとは違うレジへ行く。レジ係も制服姿を気にする様子はなく、慣れた手つきでレジスターを操作する。
 急に天宮せりかが割り込んだ。
「あ、包装、できますか。ちょっと遅いんですけどバレンタイン用に」
「えっ」
 店員がぽかんとした顔で彼女を見る。きっと僕も同じ顔だろう。
「コレも大事な手掛かりよ」
「えぇー」
 少し戸惑いながらも従業員はやはり慣れた手つきでチョコレート二枚をあっという間に包装した。昨日飽きるほど包んだに違いない。
「じゃ、帰るわよ」
「はいはい」
 天宮せりかは相変わらずの広い歩幅でレジを後にした。今度は僕も横に並ぶ。彼女は少しだけ真面目な表情をしているが、その唇は閉じていたからだ。
 結局何のためにジャスコまで来たのかはわからないが、一つ確からしいことがある。
 僕はポケットの上から手帳とペンを握った。
 今回の事件、解決は近い。




・同日の三年三組教室



 窓からの光は机や椅子を橙色に染めつつある。教室に僕と天宮せりかだけが残って一時間と少し。完全下校時刻も近づいて辺りは静かだ。たまに廊下の先や窓の向こうから生徒の声がする。
「しっかし、よく書くねぇー」
 天宮せりかが頭上から呆れたように言う。
「事件が解決しようとしているんだよ。そりゃ、事件簿もラストスパートに入るさ」
「ふぅん」
 やはり呆れたように吐息を残し、天宮せりかは隣の机に腰掛ける。おそらく暇なのだろうが、今は付き合っていられない。こうして手帳に向かっていられるのももう少しの間だ。その間にもう一度事件を整理しなければならない。何故ならば、もう事件はほぼ解決している。
 事件が起きたのは昨日の全体集会中の五十分間。その間に女生徒十四人が用意していたバレンタインチョコレートが何者かに盗まれた。三年三組の女子は二十三人。バレンタインということでほぼ全員が何らかのチョコレートを持って来ていた。例外は天宮せりかだけ。つまり犯人は相手を選んでいる可能性がある。とはいえ集会を抜けた生徒は誰もが短時間で戻ってきている。教師か外部の人間の犯行にしては動機がわからない。さすがの天宮せりかも一日そこらでの解決は無理か。そう思われた。
 だが、鋭い推理により彼女は決定的な手掛かりを得ることになる。そこからは早い。被害者の共通点、犯行の真相、犯人。全てがわかった。
 犯人はやはり三年三組の生徒。
 被害にあっていない生徒は九人。
 天宮せりか、大路智香、茅原恵、芹沢希、瑞本ゆりな、百田茜、八木遥、吉野麻紀――――
「あ……」
 そして、入り口の前で口を開けている女生徒。
「今日も忘れ物かしら……いすゞちゃん?」
 ――若菜いすゞ。
 天宮せりかはさっきまでの腑抜けた態度から一転、若菜いすゞさんに意地の悪い笑みを向けた。
 教室の空気が固まる。若菜いすゞさんは天宮せりかに言葉を返さない。彼女の長いお下げ髪すらが微動だにしない。ただ目と口をぽかんと開けている。遠くから聞こえる生徒の声だけが時間が止まっていないことを教えてくれる程の静寂。天宮せりかは黙っている。相手が反応を返すまで待つようだ。
「天宮、さん」
 時が動き出す。
「今日は、どうしたの……?」
 声は震えている。彼女としては、平静を装っているようだ。天宮せりかも、さもいつも通りかのように口を開く。
「昨日のチョコ盗難事件ね、全部わかったの。犯人も全部ね」
「犯人……?」
 よく見れば、この短時間で若菜いすゞさんの額には汗が浮かんでいた。決まりだろう。
 天宮せりかは、まるで足し算の答えを言うかのようにあっさりと言った。
「いすゞちゃんよね。コノ事件の犯人」
 すっ、と。息を飲む間が聞こえた。
 彼女の表情が崩れる。
「え、えっ……その……そんな、あのっ」
 若菜いすゞさんは目に見えてうろたえていた。視線を僕達と合わせようとせず、教室中をきょろきょろとさまよわせている。
「っ……!」
 そしてある一点を見つめ息を呑んだ。それは僕の足元にあるビニール袋。
「ソレは掃除用具入れの天井裏で見つけたの。中には綺麗に包装されたチョコと、同じく包装された空箱が入ってたわ。なんと十四個ずつ。不思議ね?」
 教室に二人きりなってから、天宮せりかは僕に探し物を命じた。昨日若菜いすゞさんが教室に来たとき、彼女は忘れ物といって机の中を見た。見つからなかったのか遅刻の危機にまた忘れたのか、何も取っていない。だがあの後天宮せりかが覗いた机の中には、何も入っていなかったという。始めから忘れ物などなかったのだ。あの時彼女が取りに来たのは、この袋だ。
 天宮せりかが見せろという仕草をするので袋から出してやる。
 若菜いすゞさんの顔色は悪くなる一方。しかし天宮せりかは容赦ない。
「いすゞちゃんのバイト先って、近くのジャスコでしょ。アノ包装紙って、ジャスコので間違いないよね」
 また合図があったので、ジャスコで包装してもらったチョコレートも出してやる。彼女に買ったものは彼女が食べてしまったので僕の分だ。
 今朝確かめたことはそれだった。瑞本ゆりなの言葉を借りれば、超々仮定演算推理の使い手である天宮せりかはその可能性に行き当たり、確認するために学校を抜け出した。店員には若菜いすゞの友人で、彼女が忘れ物をしたらしいとはったりをかけたら大当たりだったらしい。
 しかし嫌な追い詰め方をする。敵には絶対に回したくない人間だ。
「そーいえばいすゞちゃん。昨日の一限目、体育の授業だけど、途中から保健室で休んでたわよねぇ――」
「ご、ごめんなさい!」
 若菜いすゞさんが耐え切れずに叫び声をあげた。ノックアウトだ。力なく座り込み、怯えるように震えている。天宮せりかの詰問はよほど恐ろしかったらしい。涙すら浮かべ、ひたすらごめんなさいを続けている。それを静かに見つめている天宮せりかの横顔から感情は窺えない。
 今回の事件。犯行は一限目の授業中から始まっていた。体育の授業を抜けた若菜いすゞは無人の教室へ向かった。そこであらかじめ決めていた生徒のチョコレートを探し、ダミーの空箱と掏り替える。生徒の共通点は、前日にジャスコでバレンタインデー用にチョコレートを買ったこと。集会前までチョコレートはあったという証言は全てダミーに騙されていたわけだ。これが第一段階。そして六限目の全体集会。若菜いすゞは手洗いに行くと集会を抜けた。多少場所に変化があっても、ダミーを回収するのにそう時間はかからない。天宮せりかが引っかかっていた犯行時間もこれで辻褄が合う。あとは盗んだチョコレートとダミーをどこかへ隠し、人目がなくなったところで持ち帰るなり処分するなりすればいい。これが全容。しかし、ひとつ疑問が残る。何故わざわざダミーに掏り替えたかだ。確かに体育の授業中に盗めばすぐにばれる。だが、始めに場所を確認しておいて集会中に盗んでも同じことのはず。むしろその方が安全だ。まあ、それはこれからわかることだろう。
 落ち着いてきたのか、若菜いすゞさんは静かになっていた。これからどうなるのかを考えているのだろうか。昨日も言ったが、規模はともかく犯罪に違いはない。
「ひとつだけ気になるんだけど」
 天宮せりかは若菜いすゞさんの様子を気にしていないような口調で言う。
「空箱を使った偽者だけど。アレの必要性って全然ないように思うのよね。というよりは、無駄な細工でしかないの」
 僕が思ったことと同じ。どうやら天宮せりかにもわからないらしい。……すこし嬉しい。
 若菜いすゞさんが天宮せりかを見る。
「どうしていすゞちゃんはソコまでして、皆にチョコを渡させたくなかったのかしら」
 ……そうか。学校はバレンタインデーで騒ぐのはよくないので放課後まで菓子類は出さないようにと注意していたが、無視する生徒がいないわけではない。さっきの方法だと六限目までに人に渡してしまう可能性があるから、それを防ぐためにダミーを。それは思いつかなかった。……悔しいが天宮せりかの疑問は一歩先まで進んでいたわけだ。
 若菜いすゞさんは悔しげに下唇を噛んでいた。スカートを握り締め、目にも睨むように力がこもっている。
 不思議だ。最初の反応を考えると犯行がばれて悔しがっているわけはない。彼女の表情からは天宮せりかではない誰か、犯行がばれたことではない何かに対しての無念さを感じる。犯人が若菜いすゞさん以外考えられないという結論に達したときからずっと気になっていた。一体彼女がここまでした動機とは何なのだろうか。
 天宮せりかは若菜いすゞさんから目をそらさない。教室がまた静かになる。二人とも動かない。どれだけそうしていただろうか。いいいげん僕が声をかけようと思ったとき、若菜いすゞさんの体から力が抜けた。
「バレンタインチョコレートは……皆が精一杯の工夫や心遣いをこめて贈るものだって信じてた」
 ぽつりと呟く。
「相手が友達でも恋人でも、恋人になって欲しい人ならなおさら……自分の気持ちを伝えるものだって、信じてた」
 俯きながら、涙を落とすようにぽつぽつと続ける。
「でも、でも違ったの。ただ見栄だけを気にしたり、良いように相手の気持ちを動かしたりするために、バレンタインを利用する人だっているの。そのために使うものなんて、どこでも売ってるチョコで十分なのよ。ただイベントを利用して包装さえしてもらえば、いい道具なのよ、あの人たちには……。私には、それが…………それが」
 最後の方は搾り出すように消えていった。
 正直、意外だった。言い方は悪いが地味で目立たないタイプの彼女がそこまでの感情を持つとは。普段おとなしい人間ほど内に秘める激情は計り知れないものなのだろう。あの表情は被害者に向けられていたわけだ。
 天宮せりかが納得したようにため息をついた。だが、その顔はどこか厳しい。ずっと座っていた机から腰を上げると、若菜いすゞさんの前に立った。
「いすゞちゃん」
 その声は、普段の軽い調子とは違う。珍しい。
「ソレは、間違ってる」
「えっ」
 顔を上げた若菜いすゞさんを見下ろし、欠点を指摘するように言葉を落とす。
「いすゞちゃんの気持ちはわかった。だけど、いすゞちゃんの考えは浅いの。いすゞちゃんが懲らしめたかった人に対してはソレで良いかもしれない。でも、いすゞちゃんがチョコを盗った十四人全員が本当にそんな気持ちであのチョコを買ったのかしら」
「そうじゃなかったらそんなもので済ませるわけ……!」
「例えばっ!」
「っ!」
 昂る若菜いすゞさんを得意の大声で黙らせる。……僕もびっくりした。
「平河杏奈ちゃん、わかるでしょ。いすゞちゃんがチョコを盗った生徒の一人よ」
 ん……。
「杏奈ちゃんね、普段はあんなだけど、大戸一彦くんが好きなの」
 ちょっと……!
「そ、そんなプライベートを!」
「好きな人の前じゃっ! ……ついつい強がっちゃうの。わかるでしょ」
「み、耳が……」
「昨日、チョコを渡すつもりだったのよ」
 耳を塞ぐと頭の内側で彼女の声が反響しているような気がした。人の意見を大声で捩じ伏せる癖は、直して欲しい。
 天宮せりかの教室中に轟いた声にかその内容にか、若菜いすゞさんは目を丸くしている。
「そういうコもいるのよ。ストレートにありのまま気持ちを伝える勇気を持っていないコもね。ふられるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、壊れるぐらいなら今の関係のままでも良いと思って。でも少しでもソノ気持ちを伝えたい、気づいて欲しい。だから精一杯の勇気を振り絞って、ほんの少しだけ気持ちを伝えようとする。手作りなんてとんでもない、あまりに奮発したものだったら不思議がられるかも、でもせめて綺麗な包装だけはするからサインに気づいて欲しい。チョコを買う勇気すらないコもいる中で、とても頑張ったわ。ソレを渡そうと決心して、持ってくるのにどれだけの勇気が必要だと思う? いすゞちゃんは、憤りで深く考えずにそんなコ達を巻き込んだのよ。というよりは、見ないふりをしたのかな。わかる? いすゞちゃんは杏奈ちゃん達にとても酷いコトをしたの」
 …………仰天だ。天宮せりかが、女心を語っている。
 言うべきことはもうないのか、天宮せりかは口を閉じた。静かに若菜いすゞさんを見下ろしている。
 確かに、聞き込み中に平河杏奈は涙していた。僕がいたにもかかわらず話したのはそれほど気持ちが大きかったからか、僕の存在が薄かったからか。ともかく、天宮せりかが言っていることは正しいと思う。きっと平河杏奈だけではないだろう。
「そんな……そんなの…………だ、だって」
 若菜いすゞさんはうなされるように文にならない言葉を呟いている。よく見ればまた泣き出していた。天宮せりかに言われたことが効いているらしい。計画性こそあるがほとんど衝動的な犯行だ。彼女の性格を考えると自分のしてしまったことにショックを受けてもしょうがないだろう。
 薄暗い教室で若菜いすゞさんのすすり泣く声だけが聞こえる。廊下や校庭にいた生徒達も帰ったのだろう。時計はそれなりの時刻を指していた。
「ねえ、そろそろ出ないとまずいよ」
 完全下校時刻を過ぎて見回りの教師に見つかるといろいろまずい。
「そっか、そうね。いすゞちゃん、ボクたちは別に警察沙汰になんてしないからね。だからって自首とかもダメよ、勉強があるんだから。まぁたぶん取り合わないと思うけど。ボクの言ったことがちゃんと伝わってくれてたらそれでいいの」
 天宮せりかは若菜いすゞさんに優しく言うと、彼女の手をとって立ち上がらせる。
「いすゞちゃんはボクが家まで送ってくから、キミは後片付けお願いね」
「え、僕が?」
「そ。キミにいすゞちゃん任せるわけには行かないでしょ」
 そりゃ、任されてもすごく困るけど。
「まあ、わかったよ。おつかれさま」
「じゃ、また明日ねぇー」
 若菜いすゞさんに声をかけながら、天宮せりかは背を向けた。
 山場は終わった。後は言われた仕事をすれば晴れて事件解決だ。若菜いすゞさんの背中はとても力なく見える。彼女が今回のことを悪い方向に考えなければ良いけど。
 と、教室を出る直前に天宮せりかが振り返った。
「忘れるトコだった。はい、コレ」
 ぽん、と何かを投げてよこした。受け取って見ると、リボンの巻かれた四角い箱だ。
 何これ、と訊く前に声が続く。
「ユリィから貰ったんだけどボクの苦手なタイプだったからあげる」
「……ユリィって呼ぶん――あ」
 言うが早いか、天宮せりかと若菜いすゞさんは廊下に消えていた。足音が静かに遠ざかっていく。
「……いったいどんな関係なんだ、あの二人」
「そりゃあもう友達以上恋人未満だよねっ!」

 ――――?

 ――――Σ$○×@□ッ!

「あれっ、あれれっ。どーした、ちびっちゃったかい、アハハッ!」
 え?
 え!
 えぇっ?
「ど、ど、どうしてそんなところにっ!」
 やっとのことで、心と体が繋がった。
「おー、喋った喋った。変な声出すからびーっくりしちゃったよ、アハ」
 教壇に、瑞本ゆりなが立っている。そして僕は彼女にめちゃくちゃ驚いてしりもちをついている。断言していい。今まで生きた中で一番驚いた。
「いやー、けっこー狭くてさっ、この中。もー腰がイタタタよぅ」
 教卓をバンバン叩きながら言う。
「い、いつから……」
 まだ動悸がして息が続かない。
「皆がまだザワザワしてるときに、こっそーりと、ねぇ」
 ということは、三時間以上教卓の下に隠れていたということだ。そんな馬鹿な……。
「はっ」
 ――全部聞かれていることになる。
「アッハ、だいじょーぶだいじょーぶ。ユリィはセリィの味方だしセリィの考えてることはなーんでも知ってるよっ」
 僕の顔がそういう顔だったのか、先回りに言われた。……まあ、天宮せりか自身がユリィと呼んでいる以上、本当に仲が良いのだろう。……ちっとも信用ならないが。
「ていうか、何でそんなところに隠れてたわけ」
「セリィを見てれば今日なんかおもろーがあることはおみとーしよっ」
 はぁ。
「それにしてもキミはボーカンシャだったなぁー。あっ、今ユリィむずかしー言葉使ったよ、すごーい」
 そうですか。
 どうも、瑞本ゆりなと話すと気が抜ける。もうどうでもいい。さっさと帰ろう。まずぶつかって散らかした机と椅子を元に戻そうとして、手に箱を持っていることに気が付いた。
 ……そういえば。
「これ、君のなんでしょ。悪いから返すよ」
 箱を見せる。
「あっ、さてはバレンタインチョコレートだなっ」
「ああ。君が持って来たのはこれか」
 瑞本ゆりなはチョコレートを持って来たが被害に遭っていない生徒の一人だった。意外としっかりやるものだ。
 が、彼女は片眉を上げた。いかにも何か言いたそうな顔だ。
「違うよぅ。ユリィのは……」
 言葉を切り、教卓の下に頭を突っ込んだ。何か音がする。どうも鞄か何かも置いてあるようだ。
「じゃじゃーん、これっ!」
 自慢げに伸ばした左手には、大きさこそこっちと変わらないが丸い箱が掲げられている。
「え、でも天宮せりかはこれを君に貰ったと」
「それは聞ーてたよぅ。……アッハーン?」
 急に、僕を馬鹿にする時と同じ笑顔を浮かべる。あまり見ていて気分のいい顔ではない。
「何」
「なぁーんだぁー。セリィったらきゃわぃーっ! イヤー!」
 ……だから何。
「やぁーん、きゃーっ! セリィー!」
 瑞本ゆりなは僕を無視して教卓の上で転がりながら叫びを上げている。
「あのさ、一体どういうことなの。これが君のじゃないってんなら何なの」
 ようやく落ち着いたか、教卓に両手で頬杖ついてこちらを向く。
「セリィのだよっ。あんなこと言うなんて……セリィきゃわいすぎっ」
「彼女が嘘を言ったわけ?」
 よけいにわからない。
「きゃわぃーウソじゃんっ。セリィからのバレンタインチョコレートだよぅっ!」
「……えぇ?」
 天宮せりかが?
「だって彼女は持って来てないって」
「それもウソー。きゃわぃーウソー。事件があったから渡しそびれちゃったのさっ。ユリィもずーっとキミがセリィにくっついてるせいで渡せなかったんだからぁ」
 天宮せりかに渡すつもりなのは変わらないのか。
「しかし、普通にくれればいいのに。まぁ、嬉しいなぁ。来月のお返しを考えておかなきゃ……」
「ぇ……?」
「ん?」
 瑞本ゆりなが何か言った気がして顔を見ると、ぽかんと口を開けていた。
 沈黙二秒。その口が竹のようにしなって弧を描く。……またこの顔だよ。
「ユリィ、もー帰ろーっと」
 すばやく反転。教卓の下から鞄を取り出すと気に食わない笑顔のまま教室を出て行く。
 今の間は何だったんだ。
「っと」
 瑞本ゆりなが頭だけ覗かせる。その顔は、さっきまでと違って綺麗な微笑みだった。……こんな顔ができたのか。
「セリィ言ってたねー。ストレートにありのまま気持ちを伝える勇気を持ってないコもいるよ……って。セリィも、おにゃのこなのよねぇ……んじゃっ!」
「え……」
 意味深な顔で意味深なことを言うと、一瞬でいつもの笑顔に戻り体を翻した。追いかけようとして、後片付けがあることを思い出す。スキップのような足音と気に障る笑い声が反響していた。
 ……………………。
 まずい、時間がない。
 机と椅子を綺麗に並べ、後片付けを済ませる。
 最後に、手帳を開く。
 ――そういうコもいるのよ。ストレートにありのまま気持ちを伝える勇気を持っていないコもね。
 天宮せりかの言葉がちくちく脳裏を刺す。瑞本ゆりなのせいだ。
 …………まさかね。
 ボールペンを走らせた。
 『バレンタインチョコレート同時多発盗難事件・解決』



・或る日の文芸部室



 ――――予想通り、翌朝被害者の机に返されていた盗難チョコレートは物議を醸した。犯人探しの気配もあるが、天宮せりか意外の凡学生には無理だろう。名探偵天宮せりかはそれなりに有名だが、彼女からは何も言わないし訊かれても彼女は答えない。まあ、人の噂も七十五日。イベントの多い学生ならすぐにいつも通りの生活に戻るはずだ。僕がすることは、今回この事件を起こしてしまった人に天宮せりかの言葉がしっかり届いて何かを感じてくれていることを祈るばかりである。――――

 
 今のところ若菜いすゞさんは、言い方は悪いがもともと目立たないタイプだったこともあって特に問題がある様子もない。彼女はきっと大丈夫だろう。
 テキストを保存し、印刷ボタンをクリックして僕は脇に置いてあるポテトチップスをつまんだ。壁際のプリンタがガガガガと苦しげに呻き始める。前よりもうるさくなってきた上に少しずつインクがかすれはじめてきた。ほっとするよりも騒々しさが勝りそうだ。とうとう引退の時期が来たかな。
「あー、うるさいってばぁー」
 高くよく通る声を低く濁して天宮せりかが『ホーロック・シャームズ』を机に置いた。
「このプリンタもそろそろ引退かもね」
 彼女はいつものようにプリンタから刷りたてを取り上げ目を通す。
「今回は結構デリケートな内容だから、上手くぼかせてるかチェックして欲しいな」
「んー」
 気の抜けた返事をして両目で活字を追い続ける天宮せりか。
 印刷が終わるまでピンボールでも興じようと起動させる。いつかのことがある。先にハイスコアをチェックした。
 一位、七千万四十点。二位、六千九百五十万点。三位、六千八百万三千百二十点。
 ……知らなかった。八桁まで点数が表示できるなんて。
 ピンボールを終了する。
「いすゞちゃんね。去年のバレンタインにチョコ作って告白したけど、断られたんだって」
「え……うん?」
 視線は紙に落として、天宮せりかが言う。
「でね、ソノ相手は同じ日に違うコと告白されて付き合ったんだって。でも実はソノコ、いろんな人にチョコ渡して告白してたらしいのよ。数撃ちゃ……ってヤツねぇ」
「へぇ……」
 そんなことが。あの日の帰りに聞いたのだろう。
「結局のところ、何人かと同時に付き合っていろいろオイシイ思いをするつもりだったってわけ。悲しいけどそういう人がいるのも現実よねぇ……。」
 …………なんというか、そんなことがあるんだ。
「逆恨みっていうには、かわいそうね」
 独り言みたいに呟くと、天宮せりかはそれきり再び黙々と事件簿を読み始めた。
 今回の事件簿は結構長い。天宮せりかは結構な速度で読んでいるがまだかかるだろう。
 あの翌日もそれからも事件簿を読んでいる今も、彼女の顔から変わったことは読み取れない。僕に彼女の心を読むような才能はないが、瑞本ゆりなの言葉はずっと頭に残って僕に天宮せりかを見つめさせる。おかげで目が合って文句を言われる機会が増えた。瑞本ゆりなは瑞本ゆりなで、あれ以降はいつものように意味不明生物だ。
 結局、あの数十分はよくわからないままだ。
 どうもあれ以来僕だけが右往左往しているように感じる。天宮せりかや瑞本ゆりなのような人間に振り回せれているんじゃないだろうか。昔はこんなキャラクターではなかった。……でも、まあ、それでいいと思う。僕は今の僕が好きだ。
 結局僕は他人から強い力を受けないと変化しないのだ。
 昔からたいした友達も作れずに本を読んでばかりいた。他人からの些細な力は受け流してしまっていた。僕は変化せずに大人になっていった。でもある日、天宮せりかという強大な力が僕の前に現れ、僕に作用した。天宮せりかは名探偵だった。最初の事件、チョーク一斉消失事件を彼女が解決したときから、僕は彼女のエネルギーに惹かれていたんだろう。だから僕は彼女の事件簿を書くようになった。僕は、彼女に変えられた。間違いなく、これは進化だ。
「ねぇ」
「えっ?」
 天宮せりかが眉を顰めている。天宮せりかを見ながら物思いに耽ってしまっていた。
「最近キミはボクをそっちゅう見てない?」
 まずい、今の心理状況はあまり気づかれたくない。
「そ、それはそっちが僕を見るからそうなる確立が高くなっ……あ」
 そうなのか?
「え、なに。ちゃんと喋ってよ、聞こえなかった」
 よく目が合うのは、天宮せりかも僕を見るからなのか……?
「いや、事件簿、ちゃんとぼかせているかなと」
 とりあえず、お茶を濁すことにする。
 気づいているのかいないのか、天宮せりかは事件簿全体をざっと見る。
「大丈夫だと思うわよ。コレだけあやふやならわからないでしょ。まぁ、ちょっと物足りない感じはしちゃうけど」
「しょうがないでしょ、それは」
「そうねぇ……。じゃ、置いておくから」
「ありがと」
 濁せた、かな。
 天宮せりかは原稿を保管用フォルダに入れ始めた。
 彼女は、何か変わったのだろうか。彼女は自分だけで変われるのだろうか。……彼女が他人の影響を受けるとは、考えられないけど。
 本当に、彼女と目が合うのは彼女も僕を見ているからなのか。もし、そうだったら……。
 僕は、自分から動いてみるべきなんだろうか。
 作業が終わった天宮せりかはプリンタの電源を切ると、こちらを向いた。
「コノあと、暇?」
「えっ」
「どっちなのよ」
 すぐに睨むんだから。
「あ、いや、予定はないよ」
「オッケー。じゃ、行くわよっ」
 一瞬で、彼女の顔はあの意地の悪い笑顔になっていた。
 ……しまった。
 そう思う間もなく右手が攫われる。
「痛、いん、だって!」
 天宮せりかは僕の腕を引っ張り文芸部室から飛び出る。当然のように僕はドアに攻撃される。
「あのっ、一体何処に向かってるわけっ!」
 天宮せりかは髪をなびかせながら、得意の大声で答えた。
「決まってるでしょ、事件よ!」
 彼女が僕を変えるのも、僕が彼女を変えようと努力してみるのも。事件があってのこと。今までも、そしてこれからも。
 天宮せりかが解決する事件から全てが始まる。
「キミがっ、だーい好きなっ事件っ!」
 いつだって、それが始まり。




戻る

inserted by FC2 system