ランプの魔人
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 誰も知らない名すらもない場所に、古惚けたランプがある。それは内に一人の男を宿す。
 その男はランプの中で時を刻まずに眠り続ける。
 ランプの魔人は、自らを目覚めさせたものに三つの奇跡を起こす。未来へ伝承される、魔人の伝説。


 貴方の願いを三つだけ叶えましょう。

 男が撫でた古びたランプから現れた女は、幻惑的な霧に包まれながらそう言った。
 そのランプというのは男が小さなアンティークショップから買ったもので、見るだけで造られてからかなりの年月を過ごしていることが容易に知れた。真鍮製の黄色い表面は汚れ、削れ、もはや銀色の面積の方が広い。本体から細く伸びる口も欠けている。
 そんなみっともないランプを男が買ったのは、単なる気まぐれとしか言いようがなかった。そもそもアンティークショップなんてものに入ったのも気まぐれだ。傷心からふらふらと街中を歩き回っていたところ、ただなんとなく店に入り、ただなんとなくランプを買って帰ってきたのである。
 そしてそれを磨くように撫でたのも、全くの偶然。少なくとも男はそう思った。
 だが、男の手がランプに触れ表面を舐めるとそれは途端に輝きだし、薄紫色の霧を吐き出した。驚いた男の手から落ちたランプは床に着地し、なおも煙を吹き続けた。やがて霧が人を包めるほどの量に達すると、その中から染み出すようにして、女が現れた。
 まるで眠っていたかのように目を閉じていた女は、おもむろに瞼を開くと開口一番に言ったのだ。  私を永い眠りから目覚めさせた、貴方の願いを三つだけ叶えましょう。  かつて祖母が子守歌代わりに聞かせてくれた昔話のように。
 女は、この世の者とは思えなかった。実際、男のようなヒトであるはずもないだろう。ヒトは薄い霧に包まれながら宙に浮いたり、まして両手ほどの小さなランプから現れたりはしない。ならば、何なのだろうかと。男が驚きに思考を占拠されながらも考えた結果、祖母の話に行き着いた。きっと、この女こそが祖母の昔話で主人公の前に現れた精霊なのだ。長い髪に白い肌という美しさは、話とは違ったが。
 あまりに現実味のない話ではあるが、そうとしか思えないのならばきっとそうに違いなかった。
 男が黙ったままでいると、女は独り言のように言葉を紡いだ。

 貴方の心には空虚がある。望むならば、貴方の願いを三つだけ叶え、その穴を埋めましょう。

 その言葉に、男は出ない言葉を失った。あまりに、自分の心を見抜いたような物言いだったから。
 女は再び口を閉ざしていた。まるで自分が言うべきことはすべて言い終わったかのように。そして、男の返事を待つように。
 男は静かになった部屋で、ゆっくりと頭の中を整理していた。この女は、きっと精霊なのだ。そして、自分を目覚めさせた男の願いを三つ叶えてくれるらしい。男の心の空虚を埋めるために。
 男の心の空虚。それは男にはわかりきっていた。彼が失ったものは、妻となるはずだった、ある美しい女性。結婚を前に彼女は死んだ。雨の日に雷に撃たれ、死んだ。男がどうすることもできない場所で、どうすることもできない理不尽な死にさらわれた。彼女が雷に焼かれて以来、男は空虚となった。ただ働き、ただ飯を食べ、ただ日々を過ごしていた。
 それを、変えてくれるというのだ。ランプの精霊は。
 ならば、男の第一の願いは決まっていた。

 彼女を、生き返らせて欲しい。

 寸分の雑念もなく、男はそう願っていた。その瞳には、久方の光が灯っていた。
 だが、願いをかなえるといった女は悲しそうな表情を作った。それはできない、とでも言いたそうな顔だった。
 戸惑ったのは男だ。早々に願いを断られてしまった。男の目は絶望を映していた。
 項垂れる男に、女は言った。

 死者の命を呼び戻すことはできないけれども、貴方の夢の中でならその限りではない。それでもかまわないのなら、その願いを叶えましょう。

 男の目が、見開かれる。
 しばらくの黙考の後に。
 果たして男は、頷いた。


 目の前には、陽光を思わせるやさしい金髪の女。
 男は、その光景に呆然としていた。信じられなかった。彼女が、目の前にいる。あの日から消えてしまった彼女が。
 そんな男を呼ぶように、彼女はそっと微笑んだ。
 その日を境に男の夜は変わった。
 目を閉じ、意識を眠りの淵へと落とせば彼女がいる。彼女は変わっていなかった。優しく、美しく、愛しいままだった。毎夜毎夜、男は幸福を感じた。彼女が死んで以降の男は、もういなかった。
 だが、ランプの女の力も完全ではなかった。夢の中で彼女と言葉を交わすことはできても、その体に触ることはできなかった。彼女へ伸ばした手は、しかし彼女の像を通り抜けて空をかくしかできない。
 初めは、我慢できた。彼女に会えるだけで奇跡なのだからと、納得できた。だが次第に、彼女に触りたいという願いは膨らんでいく。何より、彼女の寂しい顔が男には耐えられなかったのだ。
 そして男は、再びランプを撫でた。


 男は彼女と、毎夜肌を重ねた。手を重ね、唇を重ね、互いの温もりを感じあった。それは今までの不幸すべてを帳消しにしても余りあるほどの、幸せだった。彼はもう婚約者を失くした不幸者ではないのだ。女が与えた、至高の奇跡だった。
 それでも。
 それでも壁に行き着く。
 結局のところ、男と彼女が会えるのは夢の中だけであった。それは即ち限界があるということ。男は、いずれ目覚める。目覚めた男の現実に、彼女はいない。どれだけの奇跡が起ころうとも、男の時間の大半に彼女はいないのだ。
 人間は眠り続けることはできない。
 それが、ランプの女が起こした二つの奇跡の限界だった。
 残る奇跡は、一度。
 朝日に彼女を奪われた男の目の前には古びたランプがある。その内に女の姿をした精霊を宿す骨董品。最後に何を願えば、男は彼女と過ごせるのだろうか。
 男は、ランプに手を重ねる。


 男は死ぬと言った。
 女は首を振った。
 死ねば無になり、夢を見ることもないと。
 男は永遠に眠り続けたいと言った。
 女は首を振った。
 人の体を持つ以上、いつかは朽ち果てると。
 男はどうすればいいと言った。
 女は首を振った。
 女にそれを言うことはできないと。
 男は、悲しみに暮れた。
 こんな悲しみを味わうぐらいならば、ランプを買わなければよかったと思った。
 ランプの精などに、出会わなければよかったと思った。
 ランプの精を、目覚めさせなければよかったと、思った。
 そう思ったとき、男ははっと目を開いた。
 力を失っていた頭に沸々と浮いてくる、思考。
 ランプの女は目覚めたのだ。男が目覚めさせた。
 つまり。そうつまり、女は眠っていた。ランプの中で。おそらく悠久とも思える時間を、女は眠り続けていたはず。
 男は顔を上げた。
 そして女は、首を振った。縦に。


 誰も知らない名すらもない場所に、古惚けたランプがある。それは内に一人の男を宿す。
 その男はランプの中で時を刻まずに眠り続ける。結ばれた彼女と触れ合う幸せな夢を見ながら眠り続ける。
 ランプの魔人は、自らを目覚めさせたものに三つの奇跡を起こす。未来へ伝承される、魔人の伝説。
 新たなる魔人が誕生した、幸せな哀しい物語。



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