夏海
海岸沿いの林を抜けた小さな入り江は元々知ってる人間も少なく、昨年死亡事故が起きたことも関係あるのかとても静かだった。
ここには誰かが捨てていったゴミも無い。当然海の家などあるはずもなく、テトラポッドすらも無い。浜には打ち上げられた貝や流木が散らばり、ただ波が打ち寄せて砂の表面を攫っていく。背後の林からは絶え間ない蝉の鳴き声、ときどき鳥の鳴き声。人の音がしない空間。あるのは僕の鼓動と呼吸の音だけだった。
昨日までは。
彼女は、波打ち際に一人座り込んでいた。小さく体育座りをして、波で脚と短パンが濡れるのを気にする様子もなく海を眺めている。Tシャツに短パンで裸足というラフな格好で、髪は長い。肌の色が日本人離れして白く、その白さが真夏の海と不釣合いだった。ここで見る今年初めての他人だ。
僕は離れた場所に立ち、彼女をしばらく見ていた。
彼女は座ったまま微動だにせず、ずっと水平線を見ているように思えた。潮風だけが彼女の黒髪を揺らす。その後姿を眺めている間、僕は暑さを忘れていた。蝉も鳥も、その時間だけは沈黙していた気がする。
彼女が、振り向いていた。
やはりその顔はとても白い。だが、美しかった。浜にいるのに濡れたように黒光りする長髪と肌の色がより互いを引き立たせていた。同い年ぐらいだろうか。
彼女はこっちを見ている。瞳も、深く黒い。
しばらく見合って、彼女は小首を傾げた。
「こんにちは?」
第一声、挨拶……プラス疑問符。
「こ、こんにちは」
急に話し掛けられて、羞恥に襲われた。結構な時間、僕は彼女のことを凝視していたのだ。こっちを向かれてから数えても五秒は下らない。一体僕はどんな顔をして見ていたのか。考えただけでも火が噴き出そうだ。
蝉や鳥の声が冷やかすように復活していた。
彼女の首は未だ傾いている。かといって彼女が何を疑問に思っているのか、そういう癖なのかもわからずに言葉を発せられない。そんな無意味な沈黙が少し続いた。
「ここには、よく来るの?」
沈黙を破ったのは彼女だった。
僕が見ていた事に関しては気にしない様子で、今度は反対側に首を傾けた。
「あ、ええと……うん、毎年」
海シーズンになると必ず来る。今日みたいに太陽が張り切っている日は特に。
僕の答えに、彼女は笑顔を見せた。
「私は去年ここを見つけたの。静かでいい場所ね」
「……だよね」
あまり人が増えてしまっても残念だが、女の子一人ぐらいならとても喜ばしい。
「私はよく来るんだけど、全然人がいないわよね」
「もともと目立たないところだし、交通の便も悪いから」
話しながら、緊張しつつも近くへ寄った。
「あとは、事故がちょくちょくあるみたいだから」
なるべく自然を装って傍に座る。彼女が気にする様子はない。
「そういえば、去年誰かが亡くなったらしいわね」
「ああ、あったね、そんなこと」
夏休みが終わる直前ぐらいに、死亡事故があった。一人で泳いでいたところ、溺れてしまったらしい。あまり大きくは取り上げてられなかった気がする。
「あなたは大丈夫?」
三度目の疑問符。愚問だ。
「これでも、泳ぎには自信があってね」
だからこそ好きに泳げるここに来る。確かに一人で海に来て泳ぐのは危険だが、僕は溺れるほど沖へ行ったりはしない。そういう過信こそが危険だと言われてしまえばそれまでだけど。
「そうなの。いいなぁ……」
そういうと、ため息をついた。
もしかして泳げないのだろうか。仮にそうなら、濡れても問題ない格好で海にいるのに泳ごうとしないのかも納得がいく。それとも、人目につかないこの場所で泳ぎの練習をする予定だったのか。
「ねえ、ちょっと泳いで見せてよ」
「えっ?」
突然の催促に、思わず頓狂な声を出してしまった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない、ちょっと泳いでくれたらいいの」
「ちょっとって……」
今日初めて会った女の子から言われる台詞の候補がいくつあるかは知らないが、極めて稀じゃないだろうか。困惑はするも、不思議と嫌な気分ではなかった。
「じゃあ、少し」
「やった」
彼女は小さくガッツポーズを作った。無邪気な表情がとても可愛らしい。彼女は綺麗と可愛いを併せ持っていた。そんな顔をされて断れるはずがない。
格好良い所を見せたい気持ちが大きくても準備運動は怠らない。念入りに全身の腱を伸ばし、筋肉をほぐす。すでに体は日光を浴びて汗をかいている。彼女は僕の動きを監察するように静観していた。
「…………」
多少の羞恥を感じながら、服を脱ぐ。水着を中にはいてきたのは正解だった。早速海に近づき、足をつけた。
「ふう……冷たい」
いつ感じても至福の時だ。
しばらく海水の気持ち良さを味わっていたいが、彼女の視線を感じて一気に進む。冷たさが全身を包んだ。これはこれで気持ち良い。
「ちょっと、と言われてもなぁ……」
一体どう泳いで見せればいいのか。顔まで浸かってしばし考える。
とりあえず、無難にクロールで少し行って戻ることにした。一旦潜り、砂を蹴る。目の痛みはすぐに消えた。一番やりやすい三拍子で進む。適当に進んだら、ターン。蹴る壁がないので勢いが出ないのが残念なところだ。
数十秒でスタート地点に戻った。まあ、朝飯前ってところだ。彼女に向き直ると、少し目を丸くしていた。
「すごーい」
素直に言われると、照れる。
「い、いや……それほどでも、かな」
海から上がり、彼女を濡らさないように少し離れて座った。
「さすが、自分で得意って言うだけあるのねぇ」
「ま、まあね」
「ふふーん」
見惚れてしまいそうな笑顔をしてみせる。さっきも言った気がするが、こんな顔をされればどんな願い事も瞬時に引き受けてしまえる。
「ねぇ、私に泳ぎを教えてくれない?」
「任せてよ」
…………。
「やった、ありがとう!」
「あ……ら?」
そうしてこの夏、僕は彼女専用のスイミングインストラクターになった。
●
彼女の両手を引いてバタ足の練習をさせる。最初は手を握るのにも緊張したが、今では慣れてしまった。役得なことだし。
「そう、そう。もっと足を伸ばして」
「うー、攣るー……」
「ちゃんと準備運動したから大丈夫」
彼女と出会って数日。僕は毎日海へ出向き、彼女のコーチをしていた。その間でわかった事といえば、彼女はTシャツ短パンのまま泳ぐということ、彼女の泳ぎを上達させるのはなかなか大変だということと、彼女は意外とねあかで少々わがままだということだ。あと一つ、外見とのギャップもまた魅力的。
「はい、これで十メートルくらいかな」
「ふあー、疲れた。休憩ねー」
「はいはい」
自分でそう宣言するとさっさと浜に上がって寝転がってしまった。生徒のはずなんだけど。
伸ばしてと言っているのにまだまだ足が伸びきっていない。あれほど膝を曲げてはいけないって言っているのに。困った生徒だ。この調子で一ヶ月以内に泳げるようになんてなるのだろうか。
まあ、僕としては不満なんてないわけだけど。
太陽が水平線に隠れ始めていた。
「それに、今日は割りと練習密度が濃かったから良しとしようかな」
それでも上達しないのが問題だけど、そこは慣れが解決してくれるだろう。
「でしょう?」
本当に調子がいいんだから。
「今日は私、頑張ったわよ。この分なら明日には牽引いらずね」
まだ自力で浮けないのに。
口に出すと何か言い返すに違いないので心にしまって浜に上がる。
「そうだね……じゃあ、ここまでにしておこうか」
「はーい」
そのままぐてーっとのびてしまった。
ふと、気になる。
「そういえば、家ってこの辺りなの?」
「ん、私?」
「他に誰が」
「…………そうねぇ」
彼女は横になったまま顎に指をあて考えるような仕草をした後、ぽつりと答えた。
「ここ?」
同時に地面を指差す。
「ここ!?」
「じょ、冗談よ! 決まってるじゃない、驚きすぎ!」
「え、あ、あぁ……はは、そうだよね」
あー、驚いた。さすがにこんな入り江に住んでいるわけはない。引っ掛かったのが恥ずかしいぐらいだ。
「じゃあ、本当のところはどこに?」
彼女は口元に指を立てた。
「秘密よ」
「えー」
「コジンジョーホーホゴホー」
何故片言。
「じゃあ、しょうがない。僕は帰るね」
「お疲れさまー」
やはり横になったまま手を振る。そのまま眠ってしまわないか心配だ。
「急がないと暗くなっちゃうから、帰りは気をつけてね」
特に深い意味もなく言ったのだが、彼女は驚いたような虚を突かれたような、中途半端な顔をしていた。
「……………………あり、がとう」
呟くと、向こう側へ寝返りを打ってしまった。
「……?」
変わった反応を不思議に思いつつも、今彼女に何を言ったところで答えてくれそうになかったから、僕は挨拶もそこそこに入り江を後にした。
●
過去の評価というものは、いつか必ず改める時が来るものだ。如何に酷い評価を得ようがいつかはそれを改める時が来る。その逆もあり得ないわけではないが。
結局のところ何が言いたいかというと。
「ふふん、どうよ?」
彼女が水中で胸を張った。
「いやぁ……驚きだね」
この数週間で、彼女の泳ぎはそれこそ別人に思えるほど上達していた。
バタ足は無論のこと自力で浮け、クロールはおろかバタフライまでも習得し、すでに先生としては免許皆伝を与えてもいい。でも癪だから与えたくない。というか彼女は服を着たままでここまで泳げるのだから、ちゃんとした水着を着ればかなりのスイマーになるのではないだろうか。
「弟子は師匠を超えるものなのよー」
「まだまだ超えてはいないけどね」
まず絶対的な経験値が足りない。
「む。何よ、私の成長を認めないのかしら」
「認めるけど、まだ僕には及ばないね」
それに細かい点を上げればまだダメなところを二十は言える。
「そこまで言うならしょうがないわね、勝負しましょうよ」
「勝負?」
「そう。競泳よ、競泳」
「下克上、か」
まったく、最後まで生意気な生徒だ。どうやら力の差を見せ付けてやらないといけないらしい。
「よーし、引き受けた。先生に勝てるわけないよー?」
「どうかしらねぇ、今日で先生も交代かしらー?」
勝負方法は、練習用として数十メートル先に突き刺しておいた木の板を折り返して帰ってくる競泳となった。結構遠い場所にあるから体力が勝負の鍵を握るのは間違いない。そうなれば僕の勝利はほぼ間違いないといっていいだろう。彼女はどうやら自分の体力を見誤っているらしい。
スタートの合図は僕が上に投げた石が着水した瞬間。
「よっ」
小石が思ったより高く上がる。
――チャプンっ。
「ゴー!」
気合と共に彼女が半ば飛び込むようにして泳ぎ始める。
「ふっ!」
僕も後に続いた。
彼女には元々才能があったのかもしれない。全速力は最近泳げるようになったものとは思えなかった。だがあくまでも全速力。あんな泳ぎ方をしていればすぐにばててしまうに違いない。僕はそのときを狙うためにスピードを調整して少しのリードを許しながら後ろからついていった。万が一彼女のスタミナが持ったとしても僕はそのときに全力を出せばいい。
それにしても、本当に良くここまで上達したものだと思う。僕が今ほど泳げるようになったのは中学生のころだから、泳ぎを覚えて何年も経ったころだ。僕は誰にも習っていないが、それでも彼女は早いだろう。同じ学校だったら水泳部に紹介するのに。
すでに折り返し地点を過ぎている。彼女はまだ泳げそうだ。これはそろそろペースを上げるべきかもしれない。
そう思って大きく空気を吸い込んだとき。
「ぅあ……っ!」
小さな悲鳴を上げて、彼女が沈んだ。
「えっ!?」
彼女は大きく手足をばたつかせ、浮き沈みを激しく繰り返している。
まさか――溺れてる!?
「こ、こっちに! 捕まって!」
「はっ……うっ、ぷぁ……!」
急いで差し出した腕に彼女の白い腕が絡まる。細い見た目とは裏腹にかなりの力が僕を引っ張った。
「大丈夫、大丈夫だから、落ち着いて!」
これで大人しく力を抜いてくれれば、すぐに事態は収まる。
「っふぁ、んう……っぷ、はっ!」
だが混乱している彼女に声は届いていないのか、大人しくなるどころか腕を引く力が増す。その握力と腕力は一少女とは思えない。
「くっ……頼むから、力を抜いぶわっ!」
突然、視界が海に染まった。
無数の気泡が苔むした海底を埋め尽くしていた。不意を突かれて、空気が、全然足りない。
彼女の腕が僕の首に回り込んで、頭を沈めている。
(まず、い……息が……)
見開いた目に、彼女が写る。真っ黒な髪の毛が顔や腕、全身に張り付き、僕を捕らえるかのように広がっていた。その中心にある彼女の表情は、一瞬しか見えなかったがいつもの笑顔とは程遠いものだった。鳥肌が立つほどの恐怖を見るものに与えるような。
彼女がもがくたびに僕の体も海中へ引っ張り込まれる。
このままじゃあ……。
(し、死……)
「……!」
体を縛る力が、ふっと消滅した。
「ぶわっは!」
何よりもまず顔を上げて息を吸い込んだ。酸欠で朦朧としていた意識が少しずつ戻ってくるのを感じる。危なかった。あと十秒でも彼女が放してくれなかったら僕まで……。
その、彼女は。
「……はぁ……はぁ、ん……ふぅ」
隣でちゃんと呼吸をしていた。
そのまま数十秒、呼吸だけの沈黙が続いた。
彼女の表情はさっきまでのそれと違い、彼女自身に恐怖があふれていた。初めて溺れたのだから、当然かもしれない。
「大丈夫?」
「っ……!」
僕の声に、彼女は大きく身を弾かせた。
「あ、驚かせてごめん。とにかく、まず海から出よう」
「う、うん。ありがと……」
声にもやはり力がなかった。
浜までは、慎重に彼女の手を引きながら戻った。その間彼女は無言だった。
浜に戻った彼女の第一声は、謝罪。
「ごめんね……私のせいで、危なかった」
驚くほどに沈んだ声。
「いや、大丈夫だったんだから気にしないで」
すらりと言えたことが、自分でも意外だった。
「でも……」
「誰だって泳ぎ始めは失敗するものだからさ。今度から気をつければいいんだよ」
彼女は元気のない顔を僕に向け、また俯き、
「……ありがとう」
とだけ呟いた。
僕はなんと言葉を返したらいいのかわからないで、ただ頷いただけだった。
今度は呼吸の音も聞こえない沈黙が降りた。蝉の声は、数日前から聞こえなくなっていた。聞こえるのは波の音と、朝から荒れ気味の風と、僕の鼓動だけ。
沈黙で、体が乾くほどの時間が流れていた。
彼女のために何か話したいが、こんなときに持ちかけるような話題を僕は持っていなかった
見えるのは、彼女の横顔だけ。
「あのね」
そして、口を開いたのは彼女のほうだった。
「ここの海って本当は、もっとたくさんの人が亡くなっているの」
「え……?」
まるで独り言のように言葉が紡がれる。
「前に、ここで女の子が一人、溺れて亡くなってしまった」
ゆっくりと、何かに言い聞かせるように。
「その子はちゃんと死にきることができず、この海に残ってしまったの」
一体、何の話をしているのだろうか。
「不思議なものでね、そういうのが海にいると、溺れて亡くなってしまう人がたくさん出るのよね」
言葉を挟むことはできない。
「彼女は、溺れて見せるの」
それは、僕がこの話を最後まで聞きたいからなのか。
「そしてそれを見て、助けに来てくれた人を――――」
それとも…………。
「――――引きずり込んでしまうの」
「……………………」
結局、僕は何も言えなかった。
今の彼女の話は、何を意味するのか。一体、何を。
僕の鼓動は、とても早くなっていた。
「ごめんね、いきなり変な話をして」
言いながら、彼女は僕を見た。
僕はその顔を見て、息が止まった。
それは彼女が、精力の欠片も見られない、まさしく死んだような顔をしていたから。それはどこか、溺れたときの顔に似ていた。
僕は顔に冷たい感触を覚えるまで、絶句していた。
冷たい粒はすぐに辺りに降り注いだ。
「天気、崩れちゃったね」
時間をかけて乾いた体がすぐにびしょ濡れになる。
「今日は、終わりにしましょ。ね?」
仕草と声だけは明るかった。
「急いで帰らないと、風邪ひいちゃうわよ」
僕はその言葉に促されるように立ち上がった。彼女は、その場で体育座りをしていた。
そうして僕は、彼女となし崩しに別れた。最後まで言葉を作れなかった自分が、情けなかった。
その日の夜から、雨は嵐へと変化していた。
●
外に出られるような天気ではなかった。雨が窓をしたたかに叩き、風はごうごうと唸りをあげていた。
気象情報によればもうすぐ天気は快方に向かうらしい。
快方に向かったところで、僕が外に出ることはあるのだろうか。
昨日の記憶が、僕の中を闊歩し続けている。混乱、ではなかった。昨日の事をどこか遠くから眺めているような、なんとも実感のない記憶。
それと同時に浮き出てくる、確かな、実感のある、一ヶ月弱の記憶。
――そういえば、家ってこの辺なの?――
――そうねぇ……ここ?――
自分自身がどうしたいかなんて、とっくに知っていた。
親の制止も聞かずに飛び出した外は、傘なんてまったく意味を成さない雨風だった。だから持っていない。走ることもままならない風の中を、できる限り急いで進む。人はもちろん車すら見ない。
林の中は足場こそぬかるんで不安定だったが、風が弱い分楽に進めた。もうすぐ、入り江が広がる。
突風が体を揺らした。
海は空と同じく黒く、荒れに荒れていた。今抜けてきた林にあったものだろう木の枝などが散乱している。
その中で、たった一人を探した。
浜にはいなかった。もしかするとどこかに雨風をしのげる場所があるのかもしれない。
視界の端で、何か動いているものが見えた。
「……!」
波と雨で微かにしか見えないが、確かに人影がある。動悸が高鳴った。
条件反射的に海に入った。
進みながら服を脱いでいく。どうせ波で打ち上げられる。
ちょうど彼女が昨日溺れたあたりで、髪の長い人間が動いている。両腕をばたつかせて、激しく浮き沈みしている。
――彼女は、溺れて見せるの――
大きい波で泳ぐのは困難だった。それでも、いかなければならない。まだ、昨日の事を謝っていない。
近づくにつれて、白い肌が見えた。
――そしてそれを見て、助けに来てくれた人を――
彼女と泳いでいるうちに僕自身鍛えられていたのか、不思議と体力が尽きることもなく泳ぎ続けられる。
そして、ついに彼女のそばへ辿り着いた。
「はぁっ、はっ……捕まって!」
彼女の腕をしっかりと握る。
それに気づいて、彼女が振り返った。
「っ!?」
それは、彼女ではなかった。
真っ黒な髪、白い肌、ぽっかりと闇を湛えた眼窩。
剥き出しの朽ちかけた歯を見せて、それは哂った。
――引きずり込んでしまうの――
「うぁ、ああぁぁ!」
骨のように細い手足が僕を無理やりに抱きしめる。耳元でケタケタという哂い声が背筋を凍らせる。
そして突如、その体が重みを増した。
「うぶぁ……!」
筋肉などあるはずもない体は、どれだけ力を加えてもほどけない。それどころか沈むほどに捉える力は強くなっていく。
悲鳴を上げてしまったせいで肺に空気が残っていない。加えて恐怖で、意識がはっきりしなくなってくる。体はもがいているはずだが、その手応えを感じない。
……だめ。
ふと、覚えのある声が聞こえた気がした。
だがすぐに胸の苦しさで消える。その苦しさもすぐに消え、視界が暗くなってきた。もう体が動いているのかもわからない。
……がんばって!
また、今度は近くで何かが聞こえた気がした。
もう、駄目、だ…………。
口に何かが、触れた気がした。
●
ザザァ、と、懐かしい感じの音がする。
瞼に感じる光。目が、開けられるらしい。
蒼穹。
「……………………」
僕は……。
……!
「わっ!」
隣で馴染んだ声がした。
「急に飛び起きるからビックリしたじゃない……」
「……なん、で」
今、どういう状況なのだろう。
「大丈夫、けっこう水飲んでたけど?」
心配そうな顔で尋ねてきた。
「え、うん……大丈夫、みたい」
笑顔になった。
「そう、よかったわ」
どうして彼女がここにいるんだろう。
「一体、何が?」
まずはそれを訊かないといけない。
彼女の表情が曇った。
言うか言わないか、迷っているようでしばらく下を向いていたけど、一つ頷くと陽気な表情を浮かべ背中を見せて立ち上がった。
「私もね」
それはいかにも、顔を見られたくないといった感じで。
「あの子を助けようとしちゃったの。泳げないくせにね」
あの子、それは、やはりあれのことだろう。
間違いない、彼女が、助けてくれたのだ。
「もう、夏が終わっちゃうね」
言いながら、彼女は海へ歩いていく。
「うん、終わっちゃう」
僕はその後ろを追った。
「私、楽しかったよ」
振り向いて、笑顔を見せた。
「僕も、とても楽しかった」
薄々、予感ができあがる。
「ありがとね」
これは、挨拶だ。
「それは僕が言うことだよ」
「私も言うの」
別れの。
「ありがとっ!」
「ありがとう!」
勝負するように大声を出した。
「……ねえ」
きっと、次の問いが最後になる。
「夏の海は、好き?」
答えに迷うこともない。
「うん、とても」
彼女は、少し恥ずかしそうな顔をして、口を動かした。
――a――u――i――
無音の言葉を発した後、また陽気な笑い。
「私も、好きよ」
言った瞬間。
「うっ」
波打つ海面が、一斉に日光を反射した。
それに目が眩んだ一瞬で。
彼女は、いなくなっていた。
きっと、もう会うことはない。
ふと足元を見ると、木の枝の横に「夏海」と書かれていた。
そうか。
名前を知って欲しかったんだ。
「君の、名前は――――」
ナツミ。